hongjang’s note

神戸学院大学教員。当面は研究以外のことで、関心を持っている問題について整理するために使おうと思っています。

「役に立つ/立たない」の一歩先へ(滋賀朝鮮初級学校訪問記)

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先日、母校である滋賀朝鮮初級学校で講演する機会をいただきました。その準備過程で、また母校に実際に訪れて、色々と考えることがあったので、まとめてみたいと思います。

最近、朝鮮学校でお話させていただく機会が何度かあるのですが、そのたびに何を話すべきなのか悩みます。特に、保護者の方々の支えになるような話をしたいと思ったときは、朝鮮学校の「メリット」について話そうとするのですが、いつも「ほんとにこれでいいんだろうか」とひっかかりを感じていました。

メリットに言及すること自体がダメだと言いたいわけでは決してありません。批判的思考力、マルチリンガルな思考の柔軟性、コンピーテンシーの育成、グローバル人材として必要なマインド・・・どれも、この時代を生き抜いていくために必要な能力ですし、実際に朝鮮学校は「足腰の強い」卒業生を多数輩出しています。

しかし今回は、思い切ってその違和感を払拭すべく、講演を準備することにしました。その理由は2つ。母校での講演だったことと、日本学術会議への政治介入の問題が噴出したことです。政治家と多くの日本国民が「税金で運営されているにもかかわらず国を批判している」ことを非難しましたが、これは、本来、社会全体、不特定多数の人々を指す概念である「公(おおやけ)」が「国家にとっての利益」へと矮小化されている現状を顕著に表す出来事だったと思います。

他方で、地方自治体による相次ぐ補助金削減のきっかけとなった2016年の文科省通達が、公益性の観点から補助金の執行のあり方を検討するように述べたのをみても明らかなように、朝鮮学校に対する弾圧もまさに上述したような狭隘な「公」概念に基づくものです。

「役に立たない」とされている学問をやっている私が、「朝鮮学校は役に立つ」なんて話してもあまり説得力はないでしょうし、むしろ、日本社会の「役に立たない」と言われ排除されている「ウリハッキョ」で基盤を築き、「役に立たない」研究をしている私だからこそできる話をしたほうがいいのではないか、と考えたわけです。

滋賀朝鮮初級学校は、生徒数が30名に満たない、小さな学校です。講演は参観授業の一部として行われたのですが、校長先生は、コロナ禍であまり宣伝もしていないとおっしゃっていたので、保護者と日本の支援者の方が数名来られる程度かなと思っていたのですが、用意した席はすっかり埋まってしまいました。講演のあとには、生徒たちによる調べ学習(これがまた素晴らしかった)があったのですが、2,3人の生徒たちの発表を、10名以上の大人たちが食い入るようにみつめていました。滋賀朝鮮学校は毎年夏に「ウリハッキョマダン」というイベントを開催しているのですが、昨年のイベントには760名(!)が集まったそうです。また、当日は「勝手に応援団」の方々がいらっしゃっていて、ウリハッキョマダンの記念誌を販売されていました。

なぜこんなに小さな学校に、これほど多くの人が集まるのか。なぜ支援者の方々は「勝手に」応援するのか。実はここに、私たちが知るべき朝鮮学校の意義が集約されているのでないかと思います。それは、

「役に立つ/立たない」という価値観に基づき、「他者」を徹底的に排除する社会に対して、それとは異なる魅力的な価値観を突きつける実践

であるということです。そこに魅力を感じるからこそ、多くの人たちが朝鮮学校に集うのでしょう。

もちろん、朝鮮学校にも課題はあります。純血性やオーセンティックな伝統を自明視した自己イメージのもとで、はたしてあらゆる子どもたちに対して自主性を育むための、歴史と向き合うための教育を提供できるのか、考えなくてはなりません。これは、この社会の窮屈な価値観から脱却するために避けては通れない道であるということを、講演では最も時間を割いてお話させていただきました。

「求められた話」ではなかったかもしれませんが、私もひとりの「実践者」として朝鮮学校にかかわっていくために、勇気をもってお話させていただきました。